コラム~女性医学の紹介~

マリリン・モンローを苦しめた子宮内膜症

性成熟期(18〜45歳頃)

2025.10.24

子宮内膜症とは

子宮内膜症とは、本来は子宮内にある子宮内膜に似た組織が子宮の外で増殖してしまう婦人科疾患です。
子宮や骨盤の外にできたこれらの組織は炎症や癒着を起こし、強い腹痛や月経痛、不妊症などを引き起こします。

ハリウッドを代表する伝説的女優マリリン・モンロー(1926–1962)は、この子宮内膜症に生涯苦しめられ、その症状や治療の困難さが彼女の人生とキャリアに大きな影響を与えました。

マリリン・モンローを苦しめた子宮内膜症

モンローが経験した症状と苦痛

モンローは若い頃から毎月の月経時に耐え難い激痛に襲われていました。

彼女の親しい友人たちは、モンローが月経時に悲鳴を上げるほどの酷い腹痛に苦しんでいたと証言しています。

初婚相手のジェームズ・ドハーティも「ノーマ・ジーン(モンローの本名)は生理になるとひどく体調を崩し、痛みで意識を失いかけるほどだった」と述べています。
あまりの痛みに、モンローが運転中に車を急停車させて路上でうずくまってしまったこともあったほどです。

実際、彼女の楽屋には生理痛のための鎮痛薬のボトルが山のように置かれていたとの記録もあります。

こうした慢性的な骨盤痛や月経痛により、モンローは睡眠障害にも悩まされていました。
夜通し本を読んだり大音量で音楽を流したりすることで痛みと不眠を紛らわせていたと友人は証言しています。

このようにモンローは、生涯にわたり月経に関連する激痛や体調不良(腰痛、不眠、極度の生理痛など)に苛まれていたのです。

モンローが受けた治療と当時の医学的限界

モンローが活躍した1950年代当時、子宮内膜症は現在ほど理解も進んでおらず、効果的な治療法も限られていました。
多くの女性の激しい月経痛は「女性特有の気のせい」と軽視され、医学界には女性の訴える痛みに対する偏見(医学的な女性差別)も根強く存在しました。

実際、モンローも、激痛を訴え続けたにもかかわらず真剣に取り合ってもらえず、長年にわたり精神分析のカウンセリングを受けさせられたものの肝心の肉体的治療は施されなかったとされています。
当時は子宮内膜症患者の多くが正確な診断すら受けられず見過ごされていたと推定されており、モンローもまさにそうした「見えない苦しみ」を抱えた一人でした。

安全で効果的な薬物療法や、低侵襲で保存的な手術技術(例えば腹腔鏡手術など)がまだ確立されていなかった時代、
モンローにできる対処法は限られていました。

炎症や痛みを抑える現代のような消炎鎮痛剤も無く、彼女は激痛を和らげるため
バルビツール酸系の鎮静剤や強力な鎮痛薬に頼らざるを得ませんでした。
これらは当時、不眠症や不安を訴える女性にしばしば処方されていた睡眠薬・鎮静剤ですが、中毒性が高く過剰摂取により昏睡や死亡の危険すら伴いました。モンローはこうした薬を自ら入手して痛みをごまかす「自力療法」に走り、次第に薬物依存に陥っていきました。

一方で外科的治療としては、開腹して病巣を焼灼・摘出するような大掛かりな手術が行われていました。
モンローも生涯に複数回の子宮内膜症手術を受けざるを得なかったといいます。

しかし彼女は、子どもを持つ夢を諦めきれず、主治医リー・シーゲルから勧められた子宮摘出(根治のために子宮や卵巣を摘出する手段)だけは断固として拒否しました。

モンローは医師や病院に強い不信感と恐怖心を抱いており、特に婦人科の処置に関して敏感でした。
1952年に盲腸の手術で入院した際には、自分の下腹部に執刀医への直筆のメモをテープで貼り付け、「できるだけ切らないでください。私は女性であることに価値を感じています。どうか卵巣は取らないでください」と必死に訴えたエピソードが残っています。

このようにモンローは、当時の限られた医療の中で自身の女性としての尊厳と将来(妊娠の可能性)を守ろうと必死に闘っていたのです。

病気が人生とキャリアに与えた影響

激しい子宮内膜症の症状は、モンローの私生活とキャリアの双方に暗い影を落としました。

プライベートでは、不妊と流産の繰り返しという形で彼女を苦しめました。モンローは生涯で3度結婚し、常に子供を強く望んでいました。
特にミラーとの結婚生活では「男の子が欲しい」と語っていたと言われます。
しかし子宮内膜症のため妊娠を維持できず、1956年以降に少なくとも3度の流産と1度の子宮外妊娠を経験しました。

こうした度重なる妊娠の挫折は彼女の心身に深刻なダメージを与え妊娠がうまくいくたびにモンローは深い失意と抑うつ状態に陥っていきました。
結局、子供を持つ夢は叶わず、結婚生活にも大きな亀裂を生む結果となります。
専門家の分析によれば、モンローの子宮内膜症は彼女の結婚生活を破綻させる一因ともなり、望んだ家庭を築けなかった要因でもあったと指摘されています。

この病気はまた、モンローの仕事上の評価やキャリアにもマイナスの影響を及ぼしました。
彼女は映画撮影の現場でしばしば体調不良に陥り、仕事に支障をきたすことがありました。
そのため契約書には「月経による欠勤を認める」という特別条項まで盛り込まれていたほどで、スタジオ側も彼女の月経時の不調を了承せざるを得なかったと伝えられています。

それでも当時の周囲の理解は乏しく、撮影スケジュールの遅延や舞台裏でのトラブルがあると、モンローは「わがままで怠惰な女優」などと噂されがちでした。

実際には彼女が遅刻や欠勤をする背景には激痛や体調不良があったのですが、当時はその苦しみが正当に理解されなかったのです。
モンロー自身も慢性的な痛みと戦いながら女優業を続けましたが、徐々に心身のバランスを崩していきました。
痛みによる抑うつや不眠に悩まされ、鎮静剤や鎮痛薬に依存するようになったことは、仕事の現場での集中力や信頼にも影響を及ぼしました。

晩年の彼女はしばしば情緒不安定や記憶力の低下を指摘され、1962年には撮影中だった映画を途中降板させられる事態にもなりました。
その年の8月5日、モンローはロサンゼルスの自宅でバルビツール酸系薬物の過剰摂取により36歳の若さで急逝しました。
公にはその死は自殺とも報道されましたが、背景には長年の耐え難い痛みと薬物依存があったことは否めません
子宮内膜症による慢性痛とそれに伴う心身の消耗が、彼女の人生を縮めてしまったと言えるでしょう。

近年における医学的再評価と現在の視点

モンローの死から60年以上が経過した現在、彼女が抱えていた子宮内膜症について医学的・社会的に再評価する動きが見られます。

近年の研究者や医師は、モンローの生前の医療記録や手紙、伝記などを通じて、彼女の病状の深刻さとそれが人生に及ぼした影響を改めて分析しています。専門家は「子宮内膜症に苦しんだ有名人としてマリリン・モンローが挙げられる。彼女の病状は極めて重く、そのために結婚生活も子供を望む夢もキャリアも、究極的には彼女自身の命さえも奪われてしまった」と述べています。

当時は効果的な保存的手術や有効な薬物療法が存在しなかったため、モンローは徐々に強力な鎮痛剤や精神安定剤、睡眠薬に頼るようになり、薬物依存に陥っていったと分析されています。

またポップカルチャーの面でも、モンローの病は再注目されています。
2022年の伝記映画『ブロンド』では、モンローの華やかな成功の裏にあった痛みや悲劇的な出来事が赤裸々に描かれました。

この映画をきっかけに「モンローは子宮内膜症で苦しんでいた」という事実に光が当てられ、当時彼女が適切な治療を受けられなかった背景には医療の女性軽視(medical misogyny)があったのではないかとの議論も活発化しました。

モンローの苦難の物語は、現代においても依然として多くの子宮内膜症患者が直面する課題 ー 痛みの軽視、診断までの長い道のり、周囲の無理解 ー を象徴しています。

現在では子宮内膜症は10人に1人ほどの頻度で生じる病気とされていますが、診断確定まで平均で4~11年を要し、依然として課題が残されています。

モンローの経験は、こうした医療・社会の課題を浮き彫りにし、私たちに女性の痛みに対する理解と共感の重要性を訴えかけています。
彼女の悲痛な闘病の歴史を振り返ることは、同じ病に苦しむ現代の患者たちへのエンパワーメントにもつながるでしょう。

この記事の監修

中村 久基

白山レディースクリニック院長

信州大学医学部卒業。カナダクイーンズ大学Cancer Research Lab、
東京大学産婦人科医局、NTT東日本関東病院、
長野県立こども病院総合周産期母子医療センターなどを経て現職。
日本産婦人科学会専門医・母体保護法指定医、他。
女性の一生を通じた健康サポートに取り組んでいる。

性成熟期(18〜45歳頃)の他の記事

診療時間

診療時間

  • 休診日日曜・祝日・土曜午後
  • 当院は予約の方を優先して診療しています。
  • 受付時間平日9:25~13:00、14:25〜18:00、土曜9:25~13:00

アクセス

〒112-0001
東京都文京区白山5-36-9 白山麻の実ビル9F
都営三田線「白山」駅 A1出口より 徒歩1分
東京メトロ南北線「本駒込」駅より 徒歩5分
電話番号 050‐3160‐9020